こんにちは。先生にゆうたろうです。
梅雨明けしましたね。例年より11日遅いとかなんとか。とにかく、めでたいです。
政治の話って、なんとなく避けがちですよね。なんか過激に見えるし、「お前は“そっち”なんか」と思われそうだし。え、どっち?
僕は「こんな状況はよくない!政治についてざっくばらんに話せるような環境を作るべきだ!」と声を大にして言いたい!!!!!のでは全くないです。
今回は政治的な発言をする/しないことについてちょっと考えてみたいと思います。
目次
なんかやばそうなアレ
一般に想像されている「政治的発言」を一言であらわすとこんな感じじゃないでしょうか。
政治を語る人はTwitterのアカウントのbioがすごい。何かあるとすぐリプや引用RTをぶら下げ、意見を発信し、なんでか知らんけど誰よりも怒ってる。怒ろうとする。
もちろん全員が全員そうではありませんが、その必死さにはついつい大変そうだなぁと思ってしまいます。
なんで政治を語るというのはこんな過激になっちゃう、いや映ってしまうんでしょうか。
直接的な原因は当事者間のフィルターバブルによる言葉選びの先鋭化だとおもいますが、それと同時にあるのが我々による「悪魔化」だと思います。「悪魔化」とは、そのままの意味でズバリ他者を悪者にすることです。
自分たちがフィルタリングされてどんどんその情報しか見えなくなっていき他のものをシャットアウトすると同時に、僕たちが彼ら彼女らを「怖い人」だと言って遠ざける。
双方が成り立つことで、「政治を語るのってなんか“恐れ多い”よね〜」というイメージが生まれちゃってると思います。
語「らなきゃいけない」?
……おいおい、お前この調子だと「政治に対するイメージを社会全体で払拭して、もっとフラットに気軽に話せるものにすべきだ!」とか言い出すんじゃないの?最初に言ってたことと違うじゃん。
言いそうですよね。わかります。
ま、言わないんですけどね。
そもそも、政治ってわざわざ語らなきゃいけないもんなんですか?
全世界の政治に不満を持った人たちが時折血気盛んに活動しているのを否定するつもりはないし、それはそれで大切なことだと思います。
でも、別に気にしなくていいんならわざわざ話題に出す必要ありますかね。
これって、壁紙に付いてるシミをどのくらいの大きさから気にしだすのか、みたいな話だと思います。小さくても気になる人はいるし、そうならない人も当然いる。
でも壁紙の大部分に付いてたらさすがにみんな気にしますよね。
大切なのは、今すぐ日常的に政治に興味を持つようにしたりポリコネに照らして過激な意見を社会の中から排除したりではなく、普段は好きにさせてもらうけど大きなシミを見つけたときにはお互い頑張りましょうやっていう心意気をみんなが持つことだと思ってます。
「政治参加」というもの
もちろん、ここには「大きなシミ」、つまり政治的課題の最大公約数がどこなのかという難しい問題があります。僕もわかりませんが、おそらくこれが夜警国家が担う数少ない業務、「治安と防衛」になるんだと思います。一番大事なときに動けるような環境を整備しつつ普段はお互いを見て見ぬ振りしながらきままに過ごす。それが現代の民主主義国家に求められている「政治参加」の形なんじゃないかなと思います。
お読みいただきありがとうございました。
それではまた、次の記事で〜